がくちょうレポート

テクノロジーと人間

好きに生きることに決めた

がくちょうです。

 

理由は自分でも分かりませんが、昨日の夕方あたりに説明しづらいインスピレーションが降りてきまして、そこでどうしようもない決定が起こりました。

 

そうです。

 

もう私は、好きに生きることに決めました。

 

生産性の呪縛から解き放たれる時が来たのだ

 

まぁこんな事を今さら言っても、

 

「いやお前は既にさんざん好き勝手に生きてきとるやん」

 

という風に世間一般からは言われそうです。

 

確かにステータスだけで見たら、私は既に

 

好きな場所に住んで

好きな人と好きな仕事をして

好きなクライアントに囲まれて

好きな時間働いて

子ども5人育てて

欲しいだけの収入を貰っている

 

という、意味不明すぎてフィクションみたいな生活をしています。

 

10年前に「こんな生活をしているよ」みたいな人に会ったら、100人中100人がネットワークビジネスの勧誘している人だった気がしますが、まぁちゃんとビジネスというものを理解して、何らかの専門技術を身につけていけば比較的誰でも実現できたりします。(いわゆる特化型フリーランスですね)

 

じゃあ、もう不満なんて無いでしょ、これ以上何を望むんや、という話なんですが、そうでも無くてですね。

 

何というか、私はこれまで結局のところ

 

生産性の奴隷

 

みたいな人間性というか、そういう生き方をしてきてしまっているんですよね。

 

本当に、言い方悪いかもしれませんが、奴隷みたいな考え方なんです。

 

もちろん、具体的な誰かに「奴隷のように扱われている」わけではなく、実際にはライフスタイル自体は好きにやっているんですが、そういう問題じゃなくですね。

 

何というか、全ての思考や判断の前提に

 

人間としての生産性を上げなくてはいけない

 

という奴隷根性みたいなものが存在しちゃっているという事なんです。

 

今までの活動のすべてが「生産性を上げる」ためのものだった

 

実際、今までの私の活動のすべては、

「人間としての生産性を上げる」

ためのものでした。

 

私自身も、それこそリクルート時代から始まって、そのあとも独立してベンチャーもやって、サービスやプロダクトや理論をたくさん構築してきましたが、全て「自分の生産性を上げるためには難しいことに挑戦する必要がある」という前提というか、強迫観念に近い概念がありました。

 

ファーストペンギン村をはじめとする「教育系サービス」に関しても、基本的には「ユーザーの生産性をいかに上げるか」という視点を中心に創ってきています。

 

知性を高め、生産性を上げることで希少人材になる。

他者より抜きんでた存在になる。

 

そのためには、挑戦しなくてはいけない、厳しいことをやらないといけない、より難しくてハードな選択をしなくてはいけない。

 

無意識に、そういった考え方が前提にあったのです。

 

しかし、私はそういった考え方を卒業することにしました。

 

教育はもうすぐ嗜好品になる

 

20世紀までは生産性を上げることが人間の生存と幸福において非常に重要だったようには思います。

 

実際、私が自分の人材としての生産性を上げることで、膨大な恩恵と幸福を手に入れているのも事実です。

 

なので、20世紀までの私の運営するような「私塾」や行政が運営するような「学校」などの「教育」という存在は、そのように「生産性を上げなくては幸せになれない」という前提のもとに、ある意味ライフラインとして提供されている部分があります。

 

しかし、あとおよそ10年くらいでその「生産性を上げなくては幸せになれない」という前提は崩壊するでしょう。

 

私は、そういう状況になるのは自分が引退する頃(30年後とか)だと思っていたのですが、ジェネレーティブAIという黒船の到来で目が覚めました。

 

そんなに遅いわけなかった!

 

2050年頃にシンギュラリティが来て、2070年とかにはまぁそういう社会になっているかもなぁくらいには思っていました。

 

でも、指数関数的に発達する人工知能は私たちの予想を大幅に上回ってきました。

 

あと10年で「生産性を上げなくては幸せになれない」という社会前提が崩壊してしまうと考えると、20世紀に人類が構築してきた

 

生産性を上げるための教育

 

というものも、同時に変化せざるを得ません。

 

はっきり言いますが、もうそのような教育は必要なくなるのです。

 

今後、ライフラインとしての教育は必要なくなり、全ての教育は「別に絶対に必要じゃないんだけど、好きで受けてる」というものに変化します。

 

つまり、教育が完全に「嗜好品」になるのです。

 

社会のために働くのを辞める

 

今まで私は、中心には自分の好きなことやインタレストを常に置きつつも、重要な判断をするときには必ず

 

より良い社会のためには、こうすべきだろう

 

みたいな考え方を採用してきました。

 

サービスの値段を下げたり拡張性にこだわってきたのも、「良質な教育機会が安く普及している社会にするべきだ。じゃないと、生産性の差を埋められない社会になる」みたいな考えが中心にあったからです。

 

そして、そういった難しい方向に舵を切ることは、自分の能力を上げることにも繋がるため、

 

世のため人のために難しい判断を行うことで、自分の能力も高める

 

という判断基準というか、行動方針を採用してきました。

 

しかし、今後はもうその両方が必要なくなります。

 

まず、「世のために人のために頑張る」必要が無くなります。教育は嗜好品ですから、安く広げようとする意味がありません。

 

同時に、「自分の能力を高める」必要もなくなります。自分自身への教育投資すら、必需品では無くなるからです。

 

言い換えましょう。

 

もう、私は「知性を磨くために成長しなくてもいいし、他者を成長させなくてもいい」のです。

 

義務感から解き放たれて、本当にインタレストに生きる

 

どちらかというと、起業してから5年くらいの間は、むしろ私は自分の興味関心を中心にビジネスをやっていました。

 

しかし、2017年からの5年間くらいは、「より良い教育機会を、安く大勢の人に普及するためにはどうすればいいか」という視点が強くなっていき、必要性や義務感に半分くらいは囚われて行動してきています。

 

それを、今から少しずつ手放していきます。

 

「やらなくてはいけない」「社会のためにやった方がいいだろう」という考えを手放していき、本当に純粋に「自分がやりたいか」を出発点にしていくつもりです。

 

今回私は「インタレストワーカーになれ」というメッセージを皆さんに出していく事にしました。

 

これまでも、生徒さん達には「社会のためとかは考えなくていいから、自分のために事業をやれ」という風に伝えてきていたのですが、そういいながら「自分は社会のために色々とやってる」みたいな矛盾があったように思います。

 

でも、それはもう辞めてしまいます。

 

これからは、もっとインタレストに、もっとギークに。

 

自分の興味関心を中心に、率先してインタレストに生きていきます。