がくちょうレポート

テクノロジーと人間

2年後から「勉強が趣味になる世界線」が始まる

まだ知らない人も多いと思うが。

おそらく2025年、または早ければ2024年内に、シンギュラリティに近い現象が起こる。

 

AIの先端研究で、簡単に言えば「学習量」というものを定数化して計測した場合に、人間が学習している量よりも多くを学習できるコンピューターが誕生してしまうのが、およそ2025年頃だという事が分かったらしい。

 

2022年現在でも、コンピューターは既に人間が話している「言葉自体」を人間レベルに正確に聞き取れるし、「意味」すら理解できるようになっている。

 

この「言語理解」というのは、パンドラの箱が空く瞬間とも言える。

 

人間に残された最後の知性の壁は「読解力」だったわけで、そこをコンピューターができるようになってしまうと、その先は

 

眠らずに通常の人間の何千倍のスピードで学習する「出木杉くん」

 

みたいなやつが完成すると思えばいい。

 

同じように言語を扱い、我々の何千とか何万倍のスピードで、一睡もせずに学習し続ける相手に対して、私たちは知性で勝てることはない。

 

これは、私たちが車より早く走れなかったり、ブルドーザーよりも重いものを運べなかったりするのと同じだ。

 

もしかしたら、当初はそういった機械に対して「人間の素の力」だけで対抗しようとした瞬間もあったかもしれない。

 

しかし、すぐに人間は諦めた。

 

いま、車より速く走ろうとする人間はいない。

 

ブルドーザーと張り合ってスコップで掘削をする人間もいない。

 

人間の性能には物理的限界があるからだ。

 

だが人は身体を鍛える

 

だが、分かると思うが、今でも陸上競技というものは存在していて、100メートルのタイムを0.01秒縮めるために人生を投入している人間がたくさんいる。

 

身体を鍛えるのは、マシンの登場前までは「生産性を上げるため」だった。

 

レーニングを積むことで、兵士として敵を殺したり、たくさんの土地を耕したり、飛脚としてより早く情報を届けたりしていた。

 

現代では、それら全ての目的を達成するために、身体を鍛える必要は無い。

 

しかし、人は身体を鍛える。

 

これは、人間に「成長欲」というものが存在しているからだ。

 

我々は、同種族の中でより秀でた存在になることで、本能的に満たされるように進化している。

 

だから、何の飯の足しにもならない(むしろ金がかかる)にも関わらず、トレーニングジムに通って150キロのバーベルを持ち上げてプロテインを飲む人間がたくさんいる。

 

報酬はパンパンに膨れ上がった大胸筋と、隣で羨望のまなざしで自分の胸筋を見つめる同種族、ということだ。

 

シンギュラリティ後も人は学ぶだろう、しかし

 

この事実は鑑みれば、2025年以降にコンピューターに何をもってしても知性で勝てなくなった人類だろうと、おそらく「知性を磨こうとする」という行為に終わりは来ないだろう。

 

機械より速く走れないのが分かっていても、人類が坂道ダッシュを辞めないように、機械より賢くなれないのが分かっていても、人類は読書や学習を辞めないだろう。

 

しかし、それはもう既に「何らかの生産を目的とした行為ではない」というのは明白だ。

 

たった0.1秒、100メートルを速く走れるようになったところで、ふと振り返れば、ふと冷静になれば、それは実際には何の意味も無いことなのが分かる。

 

ギネスには「レモンを3個早食いする世界記録」や「くるみをお尻で割る世界記録」などの様々な記録が存在するわけだが、その中にふと「100メートルを速く走る記録」が存在していても、何らオカシイことは無いことが分かる。

 

つまり、そこに存在する違いというのは「どれくらいの人間が、その競争に参加しているか」くらいのものであって、本質的に見れば100メートルの世界記録保持者と、くるみをお尻で割る世界記録保持者の存在というのは、ほぼ同じと言っていい。

 

他者からの承認を求めない人類が産まれる

 

これは言い換えると、21世紀以降には

 

生存=生産という人類統一の承認テーマが消失し、そもそも承認欲求自体が消失した人類が産まれる

 

という意味でもある。

 

「身体能力が生産と紐づいていた時代」には、身体を鍛えて能力が向上することは、人類共通のテーマに連結しているため、ほぼ全ての人類から賞賛と承認を与えられる行為だった。

 

しかし、今の時代には100メートル走で0.1秒のタイムを縮める行為というのは、人類共通のテーマ(=生産)には連結していない。

 

だから、その行為に何の価値も感じない人類というのが大量に発生しているし、実際に興味がない人間からしたら

 

ウサイン・ボルトが新記録?へー、知らないけど凄いね。(実際はどうでもいいけど)」

 

くらいのものだ。

 

同じように、「知性を宿している」という状態も、それ自体が人類共通のテーマ(生産)から切り離された瞬間に、

 

「あの人は知性が高くて何千万円も稼いでいるんだって。すごいねー。(実際はどうでもいいけど)」

 

という世界になる。

 

2025年以降、勉強や仕事はもう「陸上」や「くるみを尻で割る」のとほぼ同列の行為になっていくという事だ。

 

お金も持ってない、仕事も運動もできない、でも軸があるやつ

 

なんか知らんけども、

 

「俺、ミニマリストだからバックパック1つで暮らしてるんだよね」

 

みたいな人間がいたとして、そういう人間は別にお金も持っていないし、仕事も運動もできないんだけど、でもなんか知らんけども

 

「この人って自分が大事にしたいと思っている軸があるよね」

 

みたいになって、人から羨ましそうな目で見られたりする。

 

そんな時代にすでに差し掛かっているのは、皆さんも何となく感じているはずだ。

 

これは、「考えて、動ける」という人間の2大要素が全て機械に劣る状態になってしまい、もはや生産が人類共通のテーマではなくなった時代において、

 

「他者からの承認を得ようとしても統一テーマが存在しないから無駄じゃね?それよりも、他者からの承認を必要としない人生を目指すべきじゃね?」

 

という、新しい時代に向けた準備が行われていると言える。

 

世の中全体が

 

  • 自分軸
  • 好きなことで輝く
  • やりたいことをやる
  • 自己理解

 

などに傾いていっているのも、人類が何となくこの時代背景を察知しているのが理由だろう。

 

はっきり言おう。

 

年明けの2023年からは、知性を磨くのは自己満足になるのだ。

 

この時代に、我々は「なぜ学ぶのか?」について考え直す必要がある。

 

勉強が趣味になったら、あなたはそれでも学ぶだろうか?

 

是非コメントで教えて欲しい。