オープンでアクセシビリティの高いカルチャーをどうやって創造するか
これからは「文化」の時代だと思う。
今までは、人間が所属する「集団」というのは、産まれた場所や通っている学校など、ある意味「偶発的にそこに物理的に存在したから」という理由で形成されていた。
それが当たり前だった。
だが21世紀、情報化時代より先では、この
「偶発的に自分の物理存在がどこにあるか」
という事と、「所属する集団」というのが関連しなくなっていく。
これまでは、似たような場所に住んでいれば、似たような学校に行って、似たような教育を受けて、似たような会社に就職していたはずだった。
でもこれからは、「物理的距離の近さ」と「集団形成」はイコールでは無くなる時代になるだろう。
もちろん、インターネットのお陰だ。
これからは「何」が集団形成に関係してくるのか
では、物理的距離の近さが集団形成に関連しなくなるとしたら、何が代わりに関係してくるのだろう?
お分かりの通り、「精神的距離の近さ」に代替される。
インターネットの普及によって、世界中の人と「精神的な繋がり」を創れる時代が来た。
この社会環境を上手く活かせば、我々は「物理的近さ」に依存しない集団形成が当たり前の世界を構築できるはずだ。
そもそも、「物理的距離」が集団形成の中心的な因数になっているというのは、非常に「良くない社会」だ。
物理的距離が近い事を最優先にして集団を形成した場合、各人が重要としている精神性にズレが発生しやすくなるからだ。(同じ学区だからって、無理やり同じクラスにしたら、価値観が違って当たり前だ。)
それに、物理的距離の変更はコストを伴うため、上記のような社会では「集団をスイッチするコスト」が高すぎる状態になってしまう。
分かりやすく言えば、偶然地元の学校が自分に合わなかったり、クラスでイジメられてしまったら、高いコストを払って他校に転校するなどが必要になってしまうわけだ。(そして、構造が変わっていない以上、転校先でも同じことが起こる可能性は高い)
偶然、自分を産んだ親がとんでもない人格だった場合や、就職した会社の社長がどうしようもない倫理観だった場合なども、全く同じことが起こる。
人間にとって、「どの集団に所属するか」は、大きくQOLに関わってくる重大なテーマであるにも関わらず、20世紀までは「物理的距離」というガチャ要素によって、ほとんどの「スイッチコストを自由に払えない人類」は望んでいない集団に所属させられていた、とも言えるだろう。
※一部の富裕層だけは、自分が望んだ集団に所属するために、海外に移住してインターナショナルスクールに入れたり、高級住宅街に引っ越したり、エージェントを経由して外資系企業に転職したりしていた。
私は、この「物理的距離によってどの集団に所属するかが決定する」という社会から脱却し、「精神的距離によって集団を決定でき、いざという時にも所属集団をスイッチするコストが低い社会」を創造したい。
これが私がこの5年間、ずっと望んでいて、実現しようとしてきた事なのだ。
オンラインに「精神的距離の近さ」を創造する
上記のビジョンは、「物理的距離に依存せずに、精神的距離の近さを創り出す」ことができれば、実現できると考えている。
人間は、たった1人で充実した生活を送れる可能性は極めて低い。
必ず、何かしらの集団に所属することで、恩恵を授かり幸福度が上がりやすいように遺伝的に設計されている。
ならば、その「何らかの目的を持ち、集団に所属しようとした瞬間」を、全てオンライン起点にできないだろうか?
例えば何かを学びたい、と思った時に、近くにある塾やスクールを探すのではなく、オンライン上にある何らかの「集団」に所属するところからスタートする。
こうなりたい、こうありたい、と人間が望んだ時に、そのタイミングで必ず「オンライン上の何らかの集団」にアクセスでき、精神的な距離の近さを感じながら集団の力を借りて願望を達成することができ、もし自分に合わない場合にも簡単に別の集団に所属をスイッチできてしまう。
そんな社会にできないだろうか?
そこにあるのは、これまでの「会社」「学校」「家庭」などの集団としての枠組みではなく、オンラインで精神性の同調を中心に形成された集団。
これまでの言葉で言うなら、
「クラン」「カルチャークラブ」「宗教」
などが近い概念になるだろう。
集団を形成できるような「精神的な距離の近さ」とは何だろう?
では、そもそも集団を形成し、維持できるような「精神的な距離の近さ」とは一体何なのだろう?
どうすれば、そのような近さを生み出すことができるのだろうか。
これが、私のここ数年の重要な研究テーマになっている。
この「精神的な距離の近さを生み出すもの」の正体を、私は
文化
という風に表現することにした。
つまりこれからは、「物理的距離の近さ」ではなく、「文化(精神的同調性)」によって自分が所属する集団が決定される(決定できる)社会になっていくのだ。
どれだけ近くに住んでいても、文化を共有していない相手とは集団を形成しないし、逆にどれだけ離れている相手でも、同じ文化を共有している相手とは同じ集団に所属することができる社会。
文化的な繋がりが、人間の集団形成の中心的な因数になる社会が来る。
そう私は感じている。
そしてそれは既に、グローバル企業が世界中にプロダクトを広め始めた時、
「私はMAC派です」とか
「私はandroid派です」とか
そういう言葉になって、既に兆候として表れ始めている。
これがもっと細分化されて、人がテーマごとに自分が望んだぴったりの文化を選択して、多層的にいくつかの所属文化を持って暮らすようになるのではないか?
※例えば「暮らしに関しては無印とニトリ、食に関してはスローフード、生産に関してはgoogleの考え方を採用(文化に所属)している」みたいに。これが企業体だけでは無いものになる感じだ。現段階では、開かれた文化はグローバルな企業体くらいしか提供できていない。
そういう未来を私はイメージしている。
文化の構成要素と影響力
つまり言い換えるなら、「オンラインにどうやって文化を生み出すか」というのが、私が取り組むべき課題という事になる。
そのためにはまず、
- 「文化」というのものが何なのか?
- 「文化」というものがなぜ、どのように人間のQOLに大きく関わってくるのか?
という部分を言語化しなくてはならない。
文化の形成に必要なもの① 評価基準
まず、文化の形成に必要なものの1つ目が「評価基準」だ。
これは、平たい言葉に直すと
「何を」「なぜ」「かっこいい(良い行いだ)」と思っているのか?
という風に表現できる。
この基準を中心に、文化というのは形成されていく。
究極にシンプルに言うなら、文化とは「同じことをかっこいいと思っている集団」だ。
多少の解釈の違いはあっても、根底で「同じようなことを、同じような理由で、かっこいいと思っている」という部分の共有がある。
宗教だろうがグローバル企業だろうが、根底には「何らかの評価基準」が存在しており、それに同調できた人間はその文化に所属し、その評価基準に従って行動規範を創っていく事になる。
人間の一個人としての統一性を生み出すのは、評価基準なのだ。
文化の形成に必要なもの② 評価システム
次に必要なのが、「評価システム」である。
評価システムは大きく3つに分類でき、
- 評価基準に従って行動させる仕組み
- それを評価して外発的動機を強化する仕組み
- それが内発的動機に変換されていく仕組み
の3つが必要だ。
例えば宗教では「このように行動しなさい」と経典(評価基準)だけ与えるのではなく、毎週日曜日は集まって強制的に評価基準に従って行動させるなどの場所や時間を設定しているし、うまく行動できた人を全体の前で評価するなど、外発的動機を強化する仕組みもある。
さらに、定期的に内省させて達成した幸福を経典と関連付けさせる機会を増やすことで、自然と内発的動機に変換する仕組みまで整っている。
評価基準と評価システムの両方をうまく創出できると、ユーザー内に「この評価基準に従って行動していると、人生が自分が望んでいる良い方向に変化する」という感覚が醸成され、「こういう時は、こうした方がいいでしょ」という風な当たり前の判断水準というものができあがっていく。
この「共通の判断水準」というのが積み重なって、文化が形成されていくわけだ。
文化の形成に必要なもの③ 情報量(占有率)
最後に、情報量である。
その評価基準に従って行動することが、なぜ素晴らしいのか?何が素晴らしいのか?について、膨大な情報を受け取り続けることで、文化が根底まで浸透していく。
これは、創業者が一方的にメッセージを送り続けることでも成立するし、ユーザー間で何度も多角的に情報を共有し合うような形でも成立する。
重要なのは、「ひとりのユーザーにとって、その情報が全体の中でどれくらいの割合になっているか(占有率が高いか)」である。
占有率が高いほど、文化は強くその個人に浸透していくことになる。
文化が人間のQOLにどのように影響を及ぼすか
上記3つ。
評価基準・評価システム・情報量
の3つをうまく形成し、ユーザーに提供することができると、特定の指向性を持った「文化」というものに、ユーザーを所属させることができる。
この「文化」に所属したユーザーは、端的に言えば
行動習慣が変わる
というメリットを享受できる。
人間の行動を変えるのは、評価基準である。
特定の方向に指向性を持った評価基準に接し続けることで、人はその方向に向けて自然と行動し続けるようになるし、同じ方向に向けて行動している人間と大量に接触することで、「望んだ方向に進むために必要な情報」というのは自然と得られるようになる。
(それは、成功事例であったり、具体的なノウハウであったり、勉強会や実践会などの機会の情報であったりする。)
濃密な文化に所属して、その文化が推奨する方向性に人生が変化しない方が難しいと言ってもいい。
だから、もし人間が「所属したい文化を自由自在に選べる」ようになるのであれば、それはもう「なりたいように、生きたいように、ありたいように、誰もが人生を自在にデザインできるようになった社会」という風に言えるだろう。
これが、私が生み出したいと考えている社会像であり、そのために必要だと考えている3つの要素というわけだ。
文化に必要なイノベーション
私はいつも、問題を分かりやすくするために「2つの相反関係性にある指標」というのを考える。
今回は、
- 文化に参加しやすいか(開放性)
- 文化の精神同調性が高いか(濃密性)
という2つに指標を分類してみよう。
この2つは相反関係になっていて、簡単に言えば
- 文化に参加しやすくするほど、精神同調性は下がる(行動習慣が変わらない)
- 文化の精神同調性を上げるほど、参加しづらくなる(参加できる人数が減る)
という相反を抱えていると言える。
この相反に対して、ムーンショットが必要なわけだ。
文化のアクセシビリティを下げる要因は何か
では、改めてこの2つの要素
- 文化のアクセシビリティ
- 文化のシンクロニー
について、それぞれの要素を下げてしまう要因について整理していこう。
まず、文化の接近性、参加しやすさ、オープンかどうか、という指標(これを文化のアクセシビリティと呼ぶ)についてだ。
①文化の不明瞭さ、非明言性によってアクセシビリティが下がっている
文化のアクセシビリティを下げる最も大きな要因があるとしたら、この「文化の不明瞭さ」「文化の非明言性」ではないかと思う。
これは言い換えれば、経典の不存在という事だ。
戒律や経典というのは、事前約束と同じだ。
その文化に所属することで、自分がどういった同調性に参加することになるのか?を、事前に明言し伝える効果がある。
「参加するまで何を守らないといけなくなるか分からない」という宗教があったら、とてもではないが、怖くて入信できなくなるだろう。
②文化の土着性によってアクセシビリティが下がっている
文化というのは、往々にしてどこかの「土地」に土着しているものだ。
なぜなら、基本的に文化が創造されるのは「何らかの地理的要因によって、偶発的に特定の作業を行う人間が特定のエリアに土着した結果」だからである。
受動的な文化の創造起源として、最も多いのは「気候」だろう。
例えば、このエリアは寒い。冬は3Mの積雪がある。だから、必然的に「こういう行動が合理性が高い」という評価基準や評価システムが地理的に形成されていく。
結果として、同じ地理的条件を共有するエリアに、文化が土着する。
これが「受動的な合理性から発生する土着した文化」の代表例である。
能動的な文化の創造起源としては、例としてシリコンバレーが挙げられる。
特定の「地主」のような存在、シリコンバレーの場合はスタンフォード大学が該当するわけだが、そういった地理に大きな影響を与えうる存在が、ある指向性を持った評価基準や評価システムを周辺に広く整備する。
例えば、シリコンバレーではスタンフォード大学が新規事業やベンチャースタートアップの支援に力を注ぎ続け、結果を出し続けたことで、同じような評価基準を望む人間が集まってくるようになった。
結果として、同じ地理的条件を共有するエリアに、文化が土着する。
これが「能動的な合理性から発生する土着した文化」の代表例である。
この場合は、受動的な文化形成よりも拡張性が高くなる傾向がある。評価基準や評価システムは、実際には物理とは関係なく普及できるものだからだ。
地理的に土着する必然性は無いが、土着した方が濃密度が上がりやすい、という話になる。
③文化内の非同期的コミュニケーションによってアクセシビリティが下がる
前述した「文化の非明言性」「文化の土着性」の2つに関しては、
「オンラインにコミュニティを作って、オーナーがちゃんとルールと評価基準を明言して、守れている人をうまく表彰してあげれば、回避できるんじゃないの?」
という風に考える人も多いだろう。
その仮説はまさに、2012年頃から「オンラインサロン」という名前で爆発的に増えていき、10年経った現在では既に絶滅しかけている「オンラインコミュニティ」という存在によって反証されてしまった。
もちろん、ルールや評価基準があいまいだったオンラインサロンも山ほどあっただろうが、実際にはルールや評価基準が明確になっていたとしても、やはりアクセシビリティは改善されなかったのだ。
つまり、「非明言性」「土着性」以外にも、文化のアクセシビリティを阻害する要因があるという事だ。
それが、「文化内の非同期的コミュニケーションの比率」という要因である。
これは、文化の精神同調性を高めるための3つの要素のうち、「情報占有率」に関わってくる話だ。
情報占有率を高めるためには、大きく「オーナーが情報を大量に浴びせ続ける」「ユーザー同士で情報を交換する」という2つの方向性がある。
この2つのうち、「オーナーが情報を大量に浴びせる」という選択をした場合には、先ほどの「文化内の非同期的コミュニケーションの比率」は、文化のアクセシビリティを阻害する要因にならない。
シンプルに表現すれば、「オーナーが毎日ありがたいメールや投稿を送りまくっていることで成立しているオンラインサロン」というのは、実際に存在している。
この場合、非明言性すらオーナーの権力で回避できてしまうため、言い換えれば
カリスマが毎日何かしらオンラインに投稿しているだけで、有難がって寄ってくる人間が集まってきて、あたかも新興宗教の教祖のような形式で文化が構成されている
という状態を容易に創造可能だ。
このケースは多くの場合、信者の多くは妄信的になり、自律性が落ちていく傾向があるが、そういった事を無視してしまうなら、「カリスマの毎日投稿」によってオンラインに文化は創造可能だと断言できる。
問題は、この「1人のカリスマ教祖によって文化を成立維持させる」という手法を取らなかった場合だ。
その場合は、文化の構成要素である「情報占有率」を高めるために、文化内の人間同士での情報交換を促進する必要が出てくる。
だが、現段階ではオンラインによる人間同士の交流は「テキストの非同期的な交換」という方法に頼っている部分が大きい。
言い換えれば、「スレッドによる置手紙システム」である。
この置手紙システムは、参加人数が増えると目的的にしか使用できなくなるという性質を持っているため、
大規模運用しようとすると、情報量が多くなりすぎてアクセシビリティが下がる
という現象が起こりがちだ。
つまり、スレッドによる置手紙システムは、「目的的な場合」と「少人数運用の場合」に限定した上で、それに代替する「大規模運用してもアクセシビリティが下がらないようなオンラインの双方向型コミュニケーション手法」が必要だ。
この手法を見つけ出した上で、評価基準と評価システムを明言し、オンラインに実装することができれば、文化のアクセシビリティを損なわずに創造可能になると考えている。
文化のシンクロニーを下げる要因は何か
次に、文化のシンクロニーを下げる要因について深堀していく。
①経典が無い、または弱いと文化のシンクロニーが下がる
まず分かりやすいのはこの要因だろう。
つまり「評価基準」が明確になっていない。
分かりやすく伝わる仕組みやコンテンツが無い。
- どういった行動が
- なぜ重要で
- それによって何が起こる可能性が高く
- 実際に何が起きているのか
この4点セットが分かりやすく伝わるような経典が必要だ。
②評価システムがhookedされていない
これも分かりやすいが、評価システムが人間の行動心理学に基づいて設計されておらず、弱いと文化のシンクロニーは高まらない。
- トリガー
- アクション
- リワード
- インベスト
- メタ認知
の5つのサイクルを意識して設計することで、ユーザーを行動させ、外発的動機が自然と内発的動機に変化していくように促す必要がある。
③膨大なナビゲーションによる情報の占有と書き換えが行われないと、文化のシンクロニーが下がる
これも、3つの要素のうち1つなのでシンプルな話だ。
シンクロニーを高めるためには、所属するユーザーに対して膨大な情報を提供することで、データーベースごと書き換える必要がある。
しかし、事実上「スレッド置手紙システム」によってユーザー同士の大量の情報交換を実施するのは不可能である。
よって、他の「双方向型コミュニケーション」を模索しなくてはならない。
中長期的に見れば、経典の解釈の違いによって別の宗派に分かれていく事は防ぎようもないが、それは自然に任せるしかないように思う。
ただ、ある程度の自浄作用が発揮されるように、ユーザー同士のコミュニケーションに対して干渉できる仕組みが必要だろう。
それは、評価システムのメンテナンスであったり、オーナーからのメッセージであったりする。
特に、指定の行動を実施させた後に、メタ認知させる仕組みを創り、そのメタ認知の際のアウトプットをルール化することで、特定の方向性に考え方を誘導することが可能だ。
イノベーションに必要な業務とは?
さて、ここまでで「文化創造システム」の構築に必要なイノベーション要素が見えてきたはずだ。
ここからはそれらの要因を整理しつつ、実装に必要な作業を洗い出してみよう。
①経典の書籍化、ストーリー化、汎用化
まずは経典を整備する必要がありそうだ。
経典が明確であるほど、文化のアクセシビリティとシンクロニーの両面が高くなっていく事が判明したからだ。
できれば、ストーリーになっていて、かつ漫画などで汎用化するのが望ましい。
②内部完結性の高い推奨行動の定義
「ここに集まって、こんな行動をしなさい」などのように、行動内容を明確に指定しやすく、実施を半強制できるような性質を持った「推奨行動」が必要だ。
その行動は、当然文化の中心となる評価基準に沿ったものになる。
つまり経典側で「このような行動をするのが良いのだよ」という風に抽象的に示したうえで、「具体的にはここでこんな行動をせよ」という風に推奨行動で促すという事になる。
この場合、推奨行動は「できるだけシンプルで、分かりやすく、1つに絞られている」ものである必要がある。
そして、同時に「汎用性が高く、バリエーションが無制限にあり、多様性が担保される」ような性質も持ち合わせていなくてはならない。
サンプルで成功例を挙げるなら、テラコヤの「メタ認知ワーク」のようなものになるだろう。あれは、「メタ認知能力を向上しよう」という文化基準に沿って作られており、シンプルで分かりやすくて1つに行動が絞られているにも関わらず、毎回違う体験が発生し、多様性が担保された状態が実現できている。
さらに、可能な限り「内部完結性が高い」ことが望まれる。
つまり「文化に所属している人間だけで実施できる行動」である。
これらの特徴、つまり
- シンプル
- 汎用性が高い
- 内部完結性が高い
の3つを満たした「推奨行動」の定義が、非常に重要であり、イノベーションのカギになるタスクだと考える。
③ユーザー間での膨大な情報交換を、アクセシビリティを下げずに実現できるUXの開発
前述したように、スレッドによる置手紙でユーザー同士の情報交換を実施させようとしてはいけない。
そこで、マッチング性のある「推奨行動」を行わせることで、ユーザー同士に半強制的に情報交換が発生するようにする。
この時に、まず
UGC的な考え方でユーザーが自発的に「マッチング性のある推奨行動」を行うように設計するパターン
が検討される。
過去の例で言えば、「グループワーク」や「同世代あるある発見」などを実施した。
これは、推奨行動が「パートナーに依存しない」ような内容になっていれば、十分に機能するようだった。
だが、少しでも複雑性が上がったり、学習効果を要求しようとした途端に、
- アクションコストが上がって実施回数が減る
- マッチング精度が必要になって満足度が下がる
の両方の事象が発生した。
つまり、事実上ほとんど機能しないと言っていい。
次に、
運営が主導して何らかの「マッチング性のある推奨行動」を行える機会を創出し、人を集めるパターン
がある。
事例で言えば、テラコヤの定例学習会が該当するだろう。
こちらは、運用の手間がかかるが、品質や機会のコントロールが可能で、様々なテストの結果としてはこの「運営主導パターン」を採用するのが望ましいと判断している。
④評価システムの実装
こちらも、中途半端な状態になっているので丁寧に実装していくべきである。
具体的な方法論については、次回の記事に託すとする。
以上、今回は
私が目指そうとしている社会像について
その実現に必要な「文化」という要素について
文化の相反関係について
文化にイノベーションを起こすための要素について
という話をした。
次回は、具体的に実装フェーズに移るための話に入る予定だ。